[連載中] ヒューマン・コネクション【35】

カナダ小景:セントローレンス河とマリタイムズ(その1)


9月末から10月の初めにかけて、カナダのトロントからセントローレンス河(*)を下り、モントリーオール、ケベック・シティ、更に、プリンス・エドワード島からノバスコシアを回って、ボストンに戻るというクルーズに参加した。アメリカに住むようになってから、40年になるが、カナダのこの地域で過ごした時間は、ほとんど無かったので、見聞を広げる良い機会になることを期待していた。考えてみれば、カナダに対する知識はかなり浅く、最近のアメリカとの関税問題をめぐるカーニー首相の反応のニュースに目をむける程度で、隣国であるにも関わらず、あまり気に留めていなかったことに気づいた。また、カナダの大西洋岸にある3つの州、ノバスコシア州、ニューブランズウィック州、プリンス・エドワード・アイランド州を合わせて「マリタイムズ」と呼ぶことも今回初めて知った。


St. Lawrence Seaway
(出典:
www.MaritimeCyprus.com)


以前は、クルーズという旅の方法にはあまり興味が無かったし、特に超大型船のクルーズに対しては、海に浮かぶ遊園地的なネガティブなイメージを抱いていた。しかし、この数年の間に、スミソニアン・インスティテュートが企画している小型船のプログラムを数回経験して、クルーズに対する気持ちがかなり変わった。スミソニアンのエキスパート(多くの場合、大学の先生や研究所の研究員)の講義を聞いたり、訪問先の歴史や文化についての推薦図書があったりして、行き先の歴史や文化について前もって調べてから体験するクルーズには、普通の観光地周りとは少し違った楽しみがある。今回は、初期のフランス、アイルランド、スコットランドからの人々の移住と英国による統治、そしてカナダの独立に至る経緯について「予習」をしてからクルーズに参加した。

(*)セントローレンス河は、オンタリオ湖から流れ出て大西洋 (セントローレンス湾) に注ぐ、北米東部の大動脈。長さは数え方で異なるが、オンタリオ湖から河口部を除いて約500km、河口域まで含めると約1,200km前後とされ、Great Lakes Commissionは約1,287kmとしている。流域面積は約134万km²で、五大湖全体の膨大な水を集めて排出する。ケベック市での平均流量は毎秒約12,500m³。流れは大きく3つの区間に分かれ、オンタリオ湖からケベック市までが淡水の河川部、そこからアンティコスティ島までが河口域 (エスチュアリー)、その先が海水の湾。上流にはサウザンド諸島 (約1,864の島) があり、途中にモントリオールやケベック市といった大都市が並ぶ。生態面でも重要で、海棲哺乳類19種、鳥類230種以上、魚類約200種が確認されている。

(参考)


この時期、セントローレンス河の沿岸各地は、両岸を埋め尽くす紅葉が素晴らしいことで知られているが、16世紀に初めてフランスの探検隊が現地の人々と接触して以来の数々の歴史にまつわるエピソードが多く、そちらも興味深い。トロントを出て数時間、モントリオールとの中間地点くらいには、無数の小島が浮かぶサウザンド諸島と呼ばれる地域がある。川幅が100メートル以下のところもあるので、クルーズのキャプテン一同、細心の注意を払う場所の一つらしい。この流域をゆっくりと下りながら、小島と両岸に立っているヨーロッパ中世のお城のようなお屋敷の数々に魅了される。ちょうど夕焼けが空を染めるタイミングだったので、お屋敷に灯りが点灯し始め、ちょっとしたファンタジーの世界に引き込まれるような気分に浸った。翌朝到着した、モントリオールでは、古い街並みを残したオールド・タウンのカフェや、ノートルダム寺院の存在で、フランスの街を歩いているような気持ちにさせてくれた。翌日は、ケベック・シティ。フランス軍の陥落で最終的にイギリスが北米での覇権を握ることになった、凄まじい戦いの舞台になった街だ。ケベック・シティは、要塞に囲まれた都市として今でも当時の外観を保ちながら、フランスとイギリスの戦いの歴史を語り続け、人々が継承して来たフランス文化や伝統を様々な形で見せてくれる。

夕日に映えるSinger Castle @サウザンド諸島

モントリオールのオールド・タウン

16世紀にヨーロッパの船が姿を現すずっと前から、イロコイ系の諸族、アルゴンキン、ヒューロン、モホーク、モンタニェ、アブナキといった先住民の人びとが、河辺で暮らし、この河を交通と交易の幹線として使っていた。先住民の人々の存在と暮らしの形跡は、15,000年前まで遡れるとのこと。ヨーロッパ人による「発見」は、1534年のフランスの探検家ジャック・カルティエが先駆者だった。国王フランソワ1世の命を受けて、金や香辛料、そしてアジアへ抜ける北西航路を探すことを目的とした探索で、彼はセントローレンス河に辿り着く。翌1535年の第2回目の航海で、カルティエはさらに川を遡り、のちにケベック・シティとモントリオールになる土地へと到達した。この河に「聖ローレンス」の名がついたのも、この頃とされている。


カルティエの航海から70年あまり後の1608年、サミュエル・ド・シャンプレインがケベック市に恒久的な拠点を築くことになり、フランス人にとっての「探検」は、ここから「定住」へと変わる。同時にそれは、河辺で暮らしてきた先住民の人々にとっては、新しい定住者との長い関係の始まりでもあった。そしてこの河は、ほどなく「商いの道」になっていく。フランス人の毛皮商人たちは、この河を入り口に、現在のカナダ内陸部から米国にまで及ぶ広い土地へ進んで行った。毛皮交易は、先住民の人々との協力関係無しには成り立たなかったと聞く。フランス人が先住民と比較的友好的な関係を築いて、共存の道を選んだことを知って、何となくホッとした。しかし、残念なことに、約2世紀に渡ったそのような平和的な関係は、18世紀の中盤に崩れていく。


約2世紀にわたってフランスの領土としての活動を支え、先住民と比較的友好的な交易を促したこの河は、ヨーロッパにおける英仏間の七年戦争(1756〜1763年)の最中の1759年、イギリス軍が河を遡ってケベック・シティを攻める道となってしまった。2度に渡る停戦と平和に対する合意にも関わらず、イギリス軍は、この地域を攻め直し、手中にいれることになる。この地域に定着していたアカディアンと呼ばれるフランス人たちも、この地から追い出されることになり、一部はアメリカ南部のルイジアナへと移って行く。しかし、イギリスに屈しながらも、フランスの伝統を保ち、フランス語を話し続ける人々は次第にこの地に戻り、モントリオール、ケベック・シティのみならず、河辺の町や村には、その末裔の人々が、今でもフランス語が中心の生活を送っている。ケベック・シティの後に訪問した、漁村のタドウーサックやマデライン島でも、人々の日常会話はフランス語で、英語を話さない人も多かった。ケベックで話されるフランス語、特に口語のフランス語は、発音や語彙で、現在フランスで話されているフランス語とは、かなり差があるという。16世紀から、この土地に移り住み、その後イギリス統治下でフランスとの関係が断絶されたことが主な理由で、昔からのフランス語を維持したことや、その後この土地で独特の語彙や表現が発達することになった結果だそうだ。Québécois (ケべコア)と呼ばれる人たちの言語が、16世紀から17世紀のフランスと繋がっていることは興味深い。


ケベック州の公立校には、英語で教える学校とフランス語で教える学校の二つのパスがあり、フランス語の学校の人気は根強いとのこと。ツアーガイドの女性は、「イギリス系、アイルランド系、スコットランド系のカナダ人でも、フランス語を話せた方が、何かと就職に有利なので、子供達にはフランス語を学ばせる家庭が多い。」と語っていた。また、見学先で史跡や文化施設の説明をしてくれたQuébécoisの人たちは、「先住民との関係が良かったことを誇りに思っている。」「彼らがこの土地に15,000年も昔から住んでいたことを尊重し、関係を大切にして行きたい。」と語っていた。特に、9月30日を「真実と和解の国民の日 (National Day for Truth and Reconciliation)」として国民の祝日にしたカナダ人には、1990年代まで続いた強制的な「先住民寄宿学校制度」(*)に対する深い反省と、先住民コミュニティとの繋がりを尊重したいという想いがあるのだろう。

(*)2021年5月、ブリティッシュ・コロンビア州のカムループスにあった寄宿学校の跡地で、地中探査レーダーによる調査の結果、身元不明のまま埋葬されたとみられる子どもの墓の痕跡が215も確認された。19世紀後半から1990年代まで、政府とキリスト教会が共同で運営したこの制度のもとで、先住民の子どもたちは家族から引き離され、寄宿学校に強制的に収容された。目的は、先住民の言語や文化、信仰を子どもたちから切り離し、主流社会に同化させることにあったとされている。学校では、母語を話すことが禁じられ、虐待的な扱いや、劣悪な衛生環境・栄養状態による病気も多く報告されており、多くの子どもが命を落としたか、行方が分からないままになっていた。この制度の実態は、2008年から2015年にかけて活動した「真実和解委員会 (Truth and Reconciliation Commission)」の調査でも取り上げられ、同委員会は「文化的ジェノサイド」という言葉を使ってこれを総括している。


ヨーロッパからの移民と先住民、フランスとイギリスの争い、イギリスの統治下で維持され続けたQuébécoisの尊厳。この土地で人々が繋がり、コミュニティーが生まれて栄え、凄まじい戦いの末にも、19世紀以来一つの国として存続できたことは、むしろ不思議なくらい複雑なこの国。Québécoisの独立への動きがまた盛り上がったり、今回は、アルバータでも独立への市民運動が出たりしていることにも、自己のアイデンティティと地域の人々とのコネクションを重んじる市民感情が理解でき、頷ける気がして来た。カーニー首相の内政、外政の苦労はかなり深刻で、しばらくは緊張が続くことだろう。

(つづく)

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