[連載中] ヒューマン・コネクション【10】

サカジュウィアの使命

Glacier National Park は、アメリカが誇る国立公園の中でも、そのスケールと景観がトップクラスだ。6月の初めは、この公園を東西に繋ぎ、標高2000メートルのローガン・パスを通るGoing-to-the-Sun-Roadの頂点近くは、まだ通行止めになっている。この峠までのドライブは、公園内のめぼしいスポットの中でも最大の人気だが、6月初めは夏休みの家族連れが押し寄せる前で、両方向一車線の道も全く混んでいなかった。6月中旬以降は、かなりの混雑が予想されるので、交通制御のため前もって通行パスを予約し、その時間に合わせて訪れることが必要になっている。Going-to-the-Sun-Road, 太陽に向かう道、という名はネイティブ・アメリカンのブラック・フィート族の伝説に基づいているという説や、後世に欧米の探検家がつけたという説がある。名前の由来はともかく、公園の西口からLake McDonald 沿いに北東に向かい、森林をくぐり抜けながら、曲がりくねった道を次第に登っていくと、時折林間と岸壁の間に顔を見せる太陽に次第に近づいて行く感触がある。まさに太陽に向かう道、Going-to-the-Sun-Roadだと実感する。

早朝のLake McDonald @Glacier National Park

公園の東側にも、St. Mary Lake, Two Medicine Lake, Many Glacier Lake を初めとする数々の湖、氷河を眺望できるビスタ・ポイント、湖に注ぐ中小の川とその途中に数多く散在する滝など、見どころが多いので、公園の南をぐるりと回遊してSt. Mary Lakeの遊覧や周辺のハイキングを楽しんだ。アメリカの国立公園には観光地っぽい売店や看板などが無く、自然の景観がなるべく損なわれないようにされていて、心が落ち着く。湖の遊覧とハイキング・コースでは、パーク・レンジャーがガイドとして、周辺の自然、地理や歴史について詳しく説明してくれる。Glacier National Park は 1910年5月、当時のタフト大統領が署名してアメリカ10番目の国立公園に正式に指定されたそうだ。その背景には、当時Empire Builder として多大な影響力を持っていた実業家、James J. Hill の鉄道事業への投資があったとのこと。Hill 氏は、Great Northern Railwayの創始者としてGlacier National Park の南側部分を貫通させ、東海岸からの観光客、訪問客の急増を促した。当時、Hill 氏は、東海岸の富裕層に対して、ヨーロッパに行くのでは無く、ヨーロッパを超える景観を誇るアメリカのこの地域を訪れることを訴えたそうだ。James Hill 氏の ”See America First”というスローガンが功を奏して、アメリカの大自然を楽しむ人が急増した経緯、その後息子のLouis Hills が強力なロビー活動を進めてGlacier National Park が国立公園のステータスを獲得した経緯について、パーク・レンジャーのジュリアはわかりやすく説明してくれた。

訪問客の様々な質問に豊富な知識と笑顔で対応するパーク・レンジャーのジュリア

ハイキングの終点で、ジュリアは、「この後は、どこへ行くの?」と気軽に聞いてきた。ここから東に移動して、Great Falls からモンタナの大草原方面に行くことを伝えると、「Great Falls では、Lewis & Clark 博物館に行く?彼らの大変な探検があって、ここみたいな素晴らしい大自然が観られるようになったから、must see よ。特に、Sacagawea (サカジュウィア) の話を知らなかったら、感激すると思うわ。」と笑顔で見送ってくれた。

Many Glacier Hotelを臨む景観はスイス・アルプスのよう

*****

今回の旅は、Glacier National Park の大自然に触れることと、2023年8月のモンタナ訪問時から興味を持ち続けて来たLewis & Clark Expedition の山場となった史跡のいくつかを訪れることが主な目的だった。前回のモンタナ訪問では、州中部に広がる大草原の生態系を実感し、バイセンやプレーリードッグなどを身近に観たり、スミソニアンの研究者たちから生態系回復と保護に関する話を聞くことが中心の活動だったが、今回は、Lewis & Clark が最も苦労をした探検のキーポイントで、いかに苦難を乗り越えたかについてより詳しく知ることになった。2年4ヶ月、8000マイルに渡る彼らの探検の旅は、あらゆる困難に満ちていたが、特に大きなチャレンジは、現在のモンタナ州Great Falls で遭遇したミズーリ河の5つの滝と、その後に待ち受けていたロッキー山脈だと思う。この二つの障害をどのように乗り越えたかを、ジュリアのお薦めでもあるGreat Falls のLewis & Clark 博物館の展示や映画から学ぶことになった。

この博物館は、Lewis & Clark Expeditionの水路であるミズーリ河畔にあり、探検隊にまつわる逸話、背景となる歴史、ネイティブ・アメリカンとの取引、交流、争いなどに関する展示、映画、解説に触れることができる。今回とりわけ印象に残ったのは、探検隊がロッキー山脈を越えるために絶対必要だった馬をShoshone族から確保した際の逸話だった。この偉業を達成するには、探検隊を統率したLewis & Clark のリーダーシップや探検隊の献身と勇気が不可欠だったが、探検隊のメンバーに加わったネイティブ・アメリカンの女性、サカジュウィア の役割と献身には確かに感激するものがあった。

Lewis & Clark (中央)の像 @Lewis & Clark 博物館

右手に座っている女性が生まれて間も無い息子を背負っているサカジュウィア

サカジュウィアは当時16歳か17歳。フランス系カナダ人の毛皮トレーダー、Toussaint Charbonneauと結婚していたが、夫が探検隊に通訳兼ネゴシエーターとして雇われたことを機に、夫と共に探検隊に参加することになる。Lewis & Clark はサカジュウィアがいくつか重要な部族の言語を使うことができることに注目して、夫と共に受け入れることにした。時と共に、この若いネイティブ・アメリカンの女性の存在が、「探検隊は平和的でネイティブ・アメリカンに対して危害を加えない。」、という印象を与えるようになり、サカジュウィアは、当初期待されていた通訳としての役割を越える力を発揮するようになる。言語、民族、文化、習慣の違いを超えて相互理解、協力、取引を可能にするアンバサダー的役割を担うようになったとも言えるだろう。巧みな毛皮トレーディングの経験を持ち、原住民とのネゴに貢献した夫と共に、探検隊の重要なメンバーとなって行ったわけである。


彼女は、この厳しい旅の途中で初めての出産を経験する。探検隊は、ロッキー山脈越えのために必要な馬をShoshone 族との交渉で獲得しようとするが、簡単に信頼してはもらえない。その交渉の場に登場したのが、かつてShoshone 族に属し、幼い頃に別の部族に拐われ、他の地で育ったサカジュウィアだった 。乳飲み子を抱えた彼女と、Shoshone 族の若手のチーフは、目を合わせた時に、自分達は過去に引き離された兄妹同士だと気づき、瞬時に探検隊との信頼関係に繋がるという劇的な逸話は19世紀の初めから語り継がれ、アメリカ人の多くが知る逸話になっている。


冬が終わりを告げて間も無く、探検隊は最大の難関であるロッキー山脈越えに挑戦する。新生児を抱えたサカジュウィア には、兄がチーフを務めるShoshone 族と留まるという選択もあったらしいが、彼女は子供を背負って探検隊と行動することを選びこの難関に挑戦する。その凄まじいとも言える決意と勇気の理由は何だったのだろうか。歴史の記録には、その理由を明らかにするものは無いそうだが、Lewis & Clark 博物館のエキスパートは、「恐らく」という前書き付きで下記のような説明をしてくれた。

  • 夫のToussaint Charbonneau と別れ別れになりたく無かった。生まれたばかりの子供と、父親と母親、という家族の絆を大切に思った。

  • 探検隊のメンバーとしての帰属感を強く持ち、自分の役割に責任感を持つようになっていた。

  • 探検隊のリーダーとそのミッションに共鳴し、共にそのミッションを達成したいと思っていた。


いずれにしろ、彼女は探検隊の一員として、ロッキー越えに成功し、コロンビア河を降って、太平洋岸まで辿り着くというミッションを貫いた。当時まだ10代の若き女性が、白人とネイティブ・アメリカンの間、部族と部族の間の確執や不和のリスクの間に立ち、人と人とを結びつけ、信頼関係を作り出すことに大きく貢献したことには深い感銘を受けた。異質な文化や価値観、歴史の経緯から生まれる不信感を超えてヒューマン・コネクションを作り上げて行くには、個人としての勇気や使命感と共に、リーダーの支え、家族の絆、共通の目的を持つチーム(探検隊)への強い帰属感などが必要なのだと痛感しながら博物館を後にした。

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